フォークソノミー編集

近藤君と福田君との会話より。

folksによるtaxonomy=folksonomyは情報アーキテクトであるThomas Vander Wal氏による命名であるが、谷口君のバカ地図プロジェクトのような「(folksによる)投稿を編集したもの」は果たしてfolksonomyなのだろうか?

タグによるfolksonomy、del.icio.usやFlickrなどのタグインターフェイスも「ユーザーがつけたキーワードで探せる」「キーワードによる頻度分類が視覚的に見られる」といった枠組みであって、この枠組み自体は誰かが設定したものである。この枠組み(IA業界ではソーシャル情報アーキテクチャと呼んでいる)に乗っ取ってみんながタグをつけることでfolksonomyが成立する。

これに対して、バカ地図などでは「設定したテーマに沿って各自が投稿し、それを編者がまとめて形にする」というしくみである。

一見すると全く関係ない枠組みのようでもあるが、ソーシャルIAにしても、誰かがそのルールを作っているわけで、人が介入するのが先なのか後なのか、という違いのようにも考えていた。が、やはり人があとで入る枠組みは、投稿の編集という行為であって、folksonomyの持つ「ノーコントロール」が無い、という意味でfolksonomyではないのであろう、というのが今日の結論。

が、いま流行っているフォークソノミーにしても、例えば数億人がタグをつけていったら表現の幅によるばらつきや意味の包含関係など、選択肢が莫大になることが考えられる。ここでいくつかのキーワードをひとつにまとめる行為が行われていないのがフォークソノミーの特徴であり、これを誰かが行った時点でそれは「編者」が生まれ、「その編者を支持する」ムラによるコミュニティとなる。

ここまで自動で(頻度分析なのだろうか?)行うことで、固有の「編者」はいなくなるが、はたしてそれが有用だったり面白かったりするのだろうか?
関係ないが「集合知」 という表現には、一時「暗黙知」という表現が流行ったときのような違和感を感じる(ちなみに暗黙知とは明文化されていないノウハウ、という意味ではなく、人が転ばずに歩ける、といったよう明文化できない、意識外の知のことをさす)。

フォークソノミー編集」への4件のフィードバック

  1. noriyo

    http://59.106.21.77/diary/2006/04/memo_4.html を読んで
    http://akihitok.typepad.jp/blog/2006/04/post_092d.html を読んでから
    こちらにやってきたので、今日はフォークソノミーについていろいろ考えました。

    個人的には、みなさんが指摘されているような数々の要因を踏まえた上で、フォークソノミーも結局ある程度限定的なコミュニティの中でしか意味を成さないだろうと思っています。
    「ある程度」というのは、ほぼ全員が一定のコンセンサスを形成することが可能なくらいの規模、という意味なので、谷口さんのご意見に割と近いかなと思います。

    が、別にそれはそれでよしとして、フォークソノミーはそういうものなんだーと割り切って付き合えばよい程度のもの、とも感じていますが・・・
    単に使う立場でなく、どこかのサイトに実装する立場になったら、かなり落としどころに悩みそうですw

  2. ピンバック: IA Spectrum

  3. ah 投稿作成者

    IAサミットでは、フォークソノミーの役割として「情報を探し出す手助け」「情報に出会うきっかけ」がある、と集約していました。そういってしまえば何事もそうなのですが、限定した状況の中でこれらの機能について考えていくとパターンが見えてきそうな気がしています。

  4. ピンバック: scrap and build

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