対価性の放棄と得られるもの

書物について(内田樹の研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/04/05_0820.php

なぜ私たちが「膨大な量の読書」を望むかといえば、それだけが高いリテラシーを涵養する唯一の方法だからである。
そして高いリテラシーを涵養することを願うのはそれによって読書から無限の快楽を引き出すことが可能になるからである。
だとすれば、無償で読めるテクストが量的に増大することは、リテラシーの高い読者を生み出すことに資することはあっても、それを妨げることになるはずはない。

著作権と書かれたモノの対価を巡る議論。

音楽業界はMy Spaceなどのインディペンデントな方向性と、おまけの着メロのような客寄せノベルティな方向性の二極化が激しい。

blogが書いて発表する敷居を下げたように、音楽もMTRが安くなったと思ったらハードディスクレコーディングが簡単にできるようになって、15年前に数百万かかっていた機材が一台のノートPCに数万円のUSBインターフェイスをつければ可能になった。そこに、My Spaceという流通の場もできた。好きな人が「その気になれば」いくらでもで発表もできるし、お金をかけないで入手もできる。

と、状況を比べながら考えていたが、やはり世の中「その気になる」人が少ないのだろうか。

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